★(8世紀)★
701年
<語呂>名を広めた大宝律令
<出来事>大宝律令の制定。文武天皇の時代。刑部親王・藤原不比等らが編さん。
708年
<語呂>名を焼き入れる和同開珎
<出来事>和同開珎の鋳造。唐の開元通宝にならって鋳造され、日本最古の貨幣とされていたが、さらに古いと言われる富本銭が発見された。
710年
<語呂>なんときれいな平城京
<出来事>平城京遷都。元明天皇が藤原京から遷都。
712年
<語呂>ナイフで切り貼り、古事記の編さん
<出来事>古事記の編さん。稗田阿礼が語った話を太安万侶が筆録するという方法で、太古から推古天皇までの歴史が記述されている。
713年
<語呂>ないさ、いまは5つしか(蹂躙の爪牙さんから頂いた語呂)
<出来事>風土記の作成命令。風土記は、元明天皇が諸国に対して編纂を命じたもの。地方の文化風土や地勢等が記録されたが、完全に現存するものはない。出雲国風土記がほぼ完本で残り、播磨国風土記、肥前国風土記、常陸国風土記、豊後国風土記が一部欠損して残るだけ。
718年
<語呂>かわらないや、養老律令
<出来事>養老律令の制定。藤原不比等が作成したが、内容的には大宝律令と大差ない。757年に藤原仲麻呂によって施行された。
720年
<語呂>なにを書こうか日本書紀
<出来事>日本書紀の編さん。舎人親王を中心として編さんされ、太古から持統天皇までの歴史が記述されている。
723年
<語呂>なに、三代までの水田か
<出来事>三世一身の法。開墾奨励に関する法令の一つで、新たに灌がい施設を作るなどして開墾した水田は3代、それ以外は本人1代に限り私有を認めた。
729年
<語呂>なにくわぬ顔で長屋王殺す藤原兄弟
<出来事>長屋王の変。長屋王(天武天皇の孫)が藤原四兄弟によって滅ぼされた。皇親政治の終わりを意味する。
741年
<語呂>なんじ、1つ寺を作れ
<出来事>国分寺建立の詔。橘諸兄による。
743年
<語呂>なじみの年号、墾田永年私財法
<出来事>墾田永年私財法。開墾した土地の永久私有が認められ荘園ができる。聖武天皇の世だが、政治の実権は橘諸兄が握っていた。
743年
<語呂>ナンシーさん大仏作る
<出来事>大仏造立の詔。近江の紫香楽宮で、聖武天皇が金銅の廬舎那仏像をつくることを発願した。
752年
<語呂>なんとごつい大仏の顔
<出来事>東大寺の大仏開眼。孝謙天皇(聖武天皇と光明皇后の娘、女帝)の世。
754年
<語呂>7年越しで来日した鑑真和上
<出来事>鑑真の来日。日本に戒律(律宗)を伝え、唐招提寺を建立した
757年
<語呂>長うなりました施行まで
<出来事>養老律令の施行。718年に藤原不比等が作成したが、内容的には大宝律令と大差ない。藤原仲麻呂によって施行された。
764年
<語呂>泣き虫の仲麻呂、反乱す
<出来事>藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)。孝謙天皇が道鏡を寵愛して自分の権力が揺らぎ始めたために反乱を計画。事前に察知されて失敗に終わった。
784年
<語呂>名は知らぬ長岡京
<出来事>長岡京遷都。桓武天皇が平城京から遷都。建設の中心人物である藤原種継が暗殺され、その後も怪奇な事件が続発したため、わずか10年で平安京へ移ることになる。
792年
<語呂>泣くに泣けない健児くん
<出来事>諸国に健児(こんでい)を設置。桓武天皇は東北・九州を除いて軍団を廃止し、郡司の子弟を健児として採用した。目的は農民負担の軽減と兵士の質の向上にあった。
794年
<語呂>鳴くよウグイス平安京
<出来事>平安京遷都。桓武天皇が和気清麻呂の建議で長岡京から遷都。平城京と同じく唐の都、長安をまねて作られた。
797年
<語呂>泣くな田村の蝦夷征伐
<出来事>坂上田村麻呂が征夷大将軍に任じられる。蝦夷征伐を行い、多賀城の北方に胆沢城(イサワジョウ)を築き、鎮守府を移した。