★(9世紀)★
810年
<語呂>はっと驚く薬子の変
<出来事>藤原薬子の変。藤原薬子が平城上皇の重祚とともに平城京再遷都を企てた。この事件の前に、嵯峨天皇が藤原冬嗣、巨勢野足(コセノノタリ)を蔵人頭に任命。

838年
<語呂>ばあさんは知ってる遣唐使
<出来事>最後の遣唐使の派遣。このとき、天台僧(山門派)の円仁が唐へ渡った。

842年
<語呂>箸にもかからぬ承和の変
<出来事>承和の変。伴健岑(トモノコワミネ)、橘逸勢(タチバナノハヤナリ)らが謀叛を企てたとして隠岐、伊豆に流された。道康親王(のちの文徳天皇)が皇太子となる。藤原氏の他氏排斥の一つ。

858年
<語呂>屋号は良房、摂政となる
<出来事>藤原良房が摂政となる。清和天皇が即位し、藤原良房が事実上の摂政となった。

866年
<語呂>野郎ろくでもない大納言
<出来事>応天門の変。大納言伴善男(トモノヨシオ)が左大臣源信(ミナモトノマコト)の失脚をねらって応天門に放火したが発覚し、伊豆に流される。このとき藤原良房が正式な摂政となる。

884年
<語呂>やっぱし基経、関白となる
<出来事>藤原基経、事実上の関白となる。乱行を重ねる甥の陽成天皇にかえて光孝天皇を擁立。藤原基経が事実上の関白となった。

887年
<語呂>母も泣いた基経関白
<出来事>藤原基経、正式に関白となる。宇多天皇が即位し、藤原基経が正式に関白になった。この就任をめぐり、翌年の阿衡の紛議が起こった。

888年
<語呂>はっはっは、阿衡の紛議を一笑す
<出来事>阿衡の紛議。藤原基経を関白に任じるにあたり作成した詔書に「阿衡」という文字があった。「阿衡」は名ばかりの名誉官を指すことから、基経は政務から手を引いて天皇が困惑することとなった。結局、詔書の起草者である橘広相(タチバナノヒロミ)に責任を取らせて落着した。

894年
<語呂>白紙に戻す遣唐使
<出来事>遣唐使の停止。菅原道真が宇多天皇に建議した。航海の危険唐の衰退外国文化吸収意欲の衰退などが原因。なお、実際に遣唐使として最後に渡航したのは838年。