★(16世紀)★
1503年
<語呂>以後おさまる朝鮮の倭寇
<出来事>通信符による貿易開始。通信符(正式な貿易船の持つ証明書)による日本と朝鮮国(李朝)の貿易が開始された。

1510年
<語呂>以後遠のく日朝貿易
<出来事>三浦の乱。三浦(乃而浦(ナイジホ)・富山浦(フザンホ)・塩浦(エンポ))でおこった倭人居留民の暴動事件。この乱によって日朝間の交通はいったん中断された。

1523年
<語呂>以後積み込みは大内独占
<出来事>寧波の乱。大内氏と結ぶ博多商人と、細川氏と結ぶ堺商人が、勘合の真偽などを巡って寧波で争った紛争。これにより日明貿易は一時中断されたが、以降、大内氏が独占するようになった。

1536年
<語呂>以後見向きもされぬ日蓮宗
<出来事>天文法華の乱。天台宗比叡山延暦寺の僧兵や衆徒が京都の日蓮宗(法華宗)寺院を焼き払った事件。以後6年間、京都において日蓮宗は禁教となった。

1543年
<語呂>鉄砲伝来、一騎打ちは以後よさん
<出来事>鉄砲伝来。種子島の島主、種子島時尭(トキタカ)がポルトガル人から鉄砲二丁を購入した。

1547年
<語呂>以後しなくなる勘合貿易
<出来事>最後の勘合貿易船を派遣。大内氏の滅亡と明の海禁政策により勘合貿易は廃止された。

1549年
<語呂>以後よく広まるキリスト教
<出来事>キリスト教の伝来。日本人アンジロー(弥次郎・弥二郎ともいう)の案内でスペイン人のイエズス会宣教師のフランシスコ=ザビエルによって鹿児島に伝えられた。

1560年
<語呂>銃後群れなす桶狭間
<出来事>桶狭間の戦い。織田信長が今川義元を破る。以後信長は全国統一に乗り出した。

1570年
<語呂>非業な例、姉川の戦い
<出来事>姉川の戦い。織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉義景連合軍を破る。

1571年
<語呂>人こない延暦寺
<出来事>比叡山延暦寺の焼き打ち。織田信長が浅井・朝倉軍と結ぶ延暦寺を焼き打ちする。

1573年
<語呂>以後涙の義昭追放
<出来事>室町幕府の滅亡。織田信長が自ら擁立した室町幕府の15代将軍足利義昭を追放し、室町幕府は滅亡した。

1575年
<語呂>人、粉々、長篠合戦
<出来事>長篠の戦い。三河国の長篠で信長、家康の連合軍が武田勝頼と戦う。信長軍の足軽・鉄砲隊が威力を発揮し武田の騎馬隊を大敗させた。武田氏はのちに天目山(テンモクザン)の戦いで滅亡する。

1577年
<語呂>以後なんなりと楽市楽座
<出来事>織田信長が安土城下に楽市の制を敷く。

1582年
<語呂>十五夜に本能寺で変
<出来事>天下統一を目前にした織田信長が家来の明智光秀によって京都の本能寺で討たれる(自害)。明智光秀は山崎の合戦で豊臣秀吉に敗れ、逃亡中に殺された(三日天下)。

1582年
<語呂>以後は不運な明智光秀
<出来事>山崎の戦い。羽柴(豊臣)秀吉が明智光秀を破る。明秀は三日天下に終わる。

1582年
<語呂>十五夜に少年使節を派遣する
<出来事>天正遣欧使節の派遣。九州のキリシタン大名の大友義鎮、大村純忠、有馬晴信が宣教師ヴァリニャーニのすすめでローマ教皇(グレゴリウス13世)のもとに少年使節を派遣した。伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの4人。

1582年
<語呂>イチゴパンツで太閤検地
<出来事>太閤検地。「天正の石直し」ともいう。全国的規模で検地を行い、京桝(キョウマス)を定め、1段を300歩とし、土地の単位を石高に統一。この検地によって中世以来続いてきた荘園が完全に消滅した。

1583年
<語呂>以後はさんざん、賎ヶ岳の戦い
<出来事>賎ヶ岳の戦い。近江国の賤ヶ岳付近で行われた豊臣秀吉と柴田勝家の戦い。織田信長の死後の主導権をめぐっての争いで,この戦いでやぶれた勝家は越前北庄に逃れた。その後、秀吉軍に攻められて自殺。秀吉は全国統一の基盤を築くに至った。

1584年
<語呂>以後はしっかり手を結ぼう
<出来事>小牧・長久手の戦い。豊臣秀吉に通じる3老臣を斬った織田信雄が徳川家康と同盟を結び、秀吉と断交する。豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍とが小牧で対峙。さらに長久手で合戦。その後、秀吉と信雄は和議を結んだ。

1587年
<語呂>以後はならんと宣教師追放
<出来事>バテレン追放令。九州平定の直後、豊臣秀吉によって博多で発令された。宣教師の20日以内の国外退去を命じたが、貿易は続けたので実効は少なかった。

1588年
<語呂>以後は刃物禁止
<出来事>刀狩令、海賊取締令。前者は百姓が刀などの武器を持つことを禁じた命令。これによって兵農分離が進んだ。後者は同日に発布した海賊鎮圧の命令。海賊の取り締まりは、その地の領主の責任とされ、倭寇は消滅した。

1590年
<語呂>戦国王、豊臣秀吉天下統一
<出来事>豊臣秀吉が全国を統一。四国、九州を平定後、秀吉は大軍で小田原城を包囲し北条氏政・氏直(ウジナオ)を降伏させた。

1591年
<語呂>以後悔い残る身分統制
<出来事>身分統制令。武士が百姓、町人になることや農民の転業を禁止した法令。身分制度の確立を意味する。

1592年
<語呂>異国に侵入、文禄の役
<出来事>文禄の役。最初の朝鮮出兵。秀吉は自ら肥前名護屋(ナゴヤ)で指揮をとった。日本軍は平壌まで進んだが明軍の来援もあり、停戦講和した。

1597年
<語呂>以後苦難が続く慶長の役
<出来事>慶長の役。二回目の朝鮮出兵。秀吉の病死を契機に撤退。2度にわたる朝鮮出兵の際、活字印刷術が伝来した。また多くの朝鮮人陶工が日本に連行され有田焼や薩摩焼などが始められた。

1600年
<語呂>人群れ押し掛け関ケ原
<出来事>関ヶ原の戦い。美濃国関ケ原で石田三成らの西軍が徳川家康の東軍と戦って敗北(天下分け目の合戦)。

1600年
<語呂>一路往復日本まで
<出来事>リーフデ号漂着。ロッテルダムの東方貿易会社の探検船リーフデ号が豊後臼杵湾に漂着。家康は乗組員のイギリス人ウイリアム・アダムズ(三浦按針)とオランダ人ヤン・ヨーステン(耶揚子)を外交顧問に迎えた。