★(18世紀)★
1709年
<語呂>フィナーレ苦労の新井白石(太陽がさんさん)。非難、苦背負っとく[しょっとく→正徳]新井白石(0は頑張って覚える)(ピエロさん)。人(1)慣れ(70)苦(9)るしむ正徳の治(ミキさん)。人(1)な(7)らぶ奥(09)には新井白石(ミキさん)
<出来事>新井白石の正徳の治。六代家宣、七代家継に仕えた朱子学者、新井白石によって文治政治が行われた。(1)貨幣の質を改善、(2)長崎貿易の制限(海舶互市新令)、(3)朝鮮使節の待遇簡素化、(4)閑院宮家の創設、(5)将軍を「日本国王」と呼称など。

1716年
<語呂>非難いろいろ享保の改革
<出来事>享保の改革の開始。八代将軍吉宗の幕政改革。(1)新田開発、(2)上米の制、(3)足高の制、(4)年貢率引き上げ(定免法)、(5)質流し禁令、(6)相対済し令、(7)公事方御定書、(8)目安箱の設置、(9)大岡忠相の町奉行への登用など。「米将軍」と呼ばれた。

1732年
<語呂>人並みにお米食べたい享保の大飢饉
<出来事>享保の大飢饉。江戸三大飢饉(享保の大飢饉・天明の大飢饉・天保の大飢饉)のひとつ。

1742年
<語呂>人でなしに怒る忠相、公事方御定書。非難世に正す(大岡忠相の‘ただ’)法典、御定書(1+7=8、4x2=8、2つとも8代将軍の8になる)(ピエロさんの語呂)
<出来事>公事方御定書の制定。八代将軍吉宗の時代に大岡忠相(タダスケ)らが編さんした刑事、行政関係の法典。上下2巻に分かれ、特に下巻は刑事、刑事訴訟関係で103条あり「御定書百箇条」という。

1758年
<語呂>いな、御法度、尊王講義
<出来事>宝暦事件。学者の竹内式部が桃園天皇に尊王論を講義した事件。京都所司代は関係した公家を処分。竹内式部は追放された。

1767年
<語呂>非難胸騒ぎの山県大弐
<出来事>明和事件。尊王思想を説いた山県大弐、「宝暦事件」に連座し江戸攻略の軍法を説いた藤井右門が捕縛され処刑された。

1767年
<語呂>非難むなしい側用人
<出来事>田沼意次、側用人となる。側用人は将軍の側近であり,老中や若年寄の伺い・上申を取り次ぎ,その可否を献議する。家柄によらず,才能に応じて登用され,権勢を振るって幕政を左右した。

1772年
<語呂>非難なにと耳貸さず、田沼の賄賂政治
<出来事>田沼意次、老中となる。田沼意次の政治は1786年まで続いた。(1)印旛沼(インバヌマ)・手賀沼(テガヌマ)の干拓、(2)株仲間の奨励、(3)長崎貿易の拡大、(4)蝦夷地開発、(5)専売制拡大など商業資本の積極的活用をはかったが、賄賂が横行した。

1774年
<語呂>非難なし、解体新書
<出来事>「解体新書」の刊行。前野良沢・杉田玄白らが翻訳・刊行した。原著はオランダの医学書「ターヘル・アナトミア」。

1782年
<語呂>稲葉に聞いた天明の大飢饉
<出来事>天明の大飢饉。江戸三大飢饉(享保の大飢饉・天明の大飢饉・天保の大飢饉)のひとつ。

1783年
<語呂>人の悩みは大噴火
<出来事>浅間山の大噴火。

1787年
<語呂>非難はないか、寛政の改革
<出来事>寛政の改革の開始。老中松平定信(白河藩主)による改革。(1)囲米の制、(2)七分金積立、(3)石川島人足寄場の設置、(4)帰農令、(5)棄捐令、(6)寛政異学の禁などを実施した。「白河の清きに魚も住みかねてもとの濁りの田沼恋しき」という歌が有名。

1792年
<語呂>いーな国に帰れたラクスマン
<出来事>ロシアのラクスマン、根室に来航。女帝エカテリーナ2世の命令により日本との通商を求めるために漂流民の大黒屋光太夫をともなって根室に来航した。通商を求めたが、入れられず帰国した。長崎入港の許可が与えられた。