★(1801〜1860)★
1804年
<語呂>威張れよレザノフ、長崎へ
<出来事>ロシアのレザノフ、長崎に来航。アレキサンダー1世の命で長崎に来航した。通商を求めたが拒否され、翌年に退去した。
1808年
<語呂>いや、おロシアは恐ろしい
<出来事>文化の撫恤令。日本に来航するようになったロシア船を穏便に退去させるため、幕府は、ロシア船を発見した場合は説得して退去させること、必要な場合は薪・水・食糧を与えること、決して上陸させないことを申し渡した。紛争防止のための対外融和策であった。
1808年
<語呂>いわれは間宮、樺太探検
<出来事>間宮林蔵が樺太を探検。樺太が離島であることを確認した。間宮海峡を命名したのはシーボルトである。
1808年
<語呂>人は追われる、フェートン号
<出来事>フェートン号事件。イギリスの軍艦フェートン号がオランダ船捕獲のため長崎湾内に侵入、強奪を働き退去した。この騒動の責任をとり、長崎奉行の松平康英が自害した。
1811年
<語呂>人はいいゴロウニン
<出来事>ゴロウニン事件。ロシア海軍の軍人ゴロウニンが国後島で幕府の役人に捕まった。翌年、ロシアは高田屋嘉兵衛を捕らえた。ゴロウニンは帰国後、「日本幽囚記」を著した。
1818年
<語呂>いやいや来日、ゴルドンさん
<出来事>ゴルドンが浦賀に来航。
1825年
<語呂>いやに強引打ち払い
<出来事>異(外)国船打払令。清船、オランダ船以外は二念なく(ためらわず)撃退することを命じたもので、無二念(ムニネン)打払令ともいう。幕府はアヘン戦争の結果を聞くにおよび、1842年には「薪水(シンスイ)給与令」を発してもとの「文化の撫恤令」の状態に戻した。
1828年
<語呂>いやにはにかむシーボルト
<出来事>シーボルト事件。シーボルトはオランダ商館付のドイツ人医師。長崎の鳴滝塾(ナルタキジュク)で医学を教えていたが、帰国に際して日本地図を幕府天文方の高橋景保から入手・国外持ち出ししたことが発覚した。これによってシーボルトは国外追放になった。
1833年
<語呂>人はさんざん天保の大飢饉
<出来事>天保の大飢饉。江戸三大飢饉(享保の大飢饉・天明の大飢饉・天保の大飢饉)のひとつ。
1837年
<語呂>いやみなモリソン
<出来事>モリソン号事件。日本漂流民をともない通商と布教をめざして浦賀に来航したアメリカ船のモリソン号が日本側の砲撃を受け、ついで薩摩山川でも砲撃を受けて退去した事件。砲撃は異国船打払令による。
1837年
<語呂>人は皆、応援した大塩の乱。“イヤン見ないで”大塩平八郎の乱(元受験生さんの語呂)
<出来事>大塩平八郎の乱。陽明学者で大坂町奉行所の与力であった大塩平八郎が天保の飢饉に苦しむ民衆の救済を訴えたが入れられず、蜂起した事件。天領で幕府の役人が起こした事件だけに幕府に大きな衝撃を与えた。
1839年
<語呂>人は錯乱、蛮社の獄
<出来事>蛮社の獄。モリソン号事件を批判した渡辺崋山・高野長英らを弾圧。崋山は国もと蟄居後に自殺、長英は脱獄自殺した。
1840年
<語呂>一発清おどす、アヘン戦争。い(1)や(8)よ(4)、お(0)じさんアヘンはダメ!(ころもさんの語呂)
<出来事>アヘン戦争。アヘンの禁輸を巡って清(中国)とイギリスの間で起こった戦争。清はイギリスに対して不平等条約を結ばざるをえなくなった。
1841年
<語呂>いや、良いこともあった天保の改革
<出来事>天保の改革の開始。老中水野忠邦が行った幕政改革。(1)棄捐令(キエンレイ)、(2)株仲間の解散、(3)人返し令、(4)上知(地)令をおこなったが、上知(地)令への反発が強く失脚した。
1842年
<語呂>いやよ2回は南京条約
<出来事>南京条約。アヘン戦争の講和条約で、清は香港をイギリスに割譲した。
1842年
<語呂>水野一派(18)清に(42)驚き薪水給与(ピエロさん)
<出来事>天保の薪水給与令。天保の改革を行っていた水野忠邦が発令。幕府は清の南京条約の結果を見て列強諸国を恐れ、1825年の異国船打払令を撤回。文化の撫恤令の状態に戻した。
1844年
<語呂>いやよ知ってる?オラ(オランダの‘オラ’)入れたくない(ウィレムの‘ウィレ’で入れ)(ピエロさん)
<出来事>オランダ国王ウィレム2世の開国勧告。幕府は鎖国が祖法であることを理由に拒否した。
1846年
<語呂>「嫌」「よろしく」とビットル通商要求にNo
<出来事>ビッドルが浦賀に来航。アメリカ東インド艦隊司令長官のビッドルが浦賀に来航し、通商を要求。幕府は鎖国を理由に拒絶した。
1853年
<語呂>開国はいやでござんすペリーさん
<出来事>ペリーが浦賀に来航。アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーがフィルモア大統領の国書を持って軍艦4隻で浦賀に来航し開国を求める。翌年再び来航し日米和親条約を締結。
1854年
<語呂>一夜越し結んだ和親条約
<出来事>日米和親条約に調印。日本側代表林あきら大学頭とペリーが横浜村で調印した。下田、箱館を開港した。同様の条約をオランダ、イギリス、ロシアとも締結。当時の幕政の中心は老中阿部正弘であった。
1856年
<語呂>いや殺す、ハリスさん
<出来事>ハリス来日。アメリカ総領事のハリスが下田に着任した。
1858年
<語呂>いやこわい、不平等条約
<出来事>日米修好通商条約に調印。大老井伊直弼が勅許を受けないままハリスと調印。箱館のほか、神奈川、長崎、新潟、兵庫を開港した。(1)領事裁判権(治外法権)の承認、(2)関税自主権がないなど日本にとって不平等条約であった。
1859年
<語呂>いっぱい獄につながれた安政の大獄。人(1)は(8)号泣(59)安政の大獄(ミキさんの語呂)
<出来事>井伊直弼の専制政治に反対する尊王攘夷派や一橋派の大名、志士らが処罰された事件。徳川斉昭をはじめ、吉田松陰、橋本左内、梅田雲浜(ウンピン)、頼三樹三郎(ライミキサブロウ)などが処罰された。
1860年
<語呂>人やむおえず、江戸廻り
<出来事>五品江戸廻送令。外国貿易に関連して江戸幕府が発した流通統制令。物産が外国開港した港へ直送されることにより江戸で物資不足が生じたため、重要輸出五品(雑穀・水油・蝋・呉服・生糸)の直送を禁じ、江戸問屋を経由させることにしたもの。
1860年
<語呂>井伊は無礼と桜田門
<出来事>桜田門外の変。安政の大獄に憤激した水戸・薩摩の脱藩浪士が登城中の大老井伊直弼を暗殺した事件。幕府の権威は失墜した。
1860年
<語呂>ヒ(1)ュースケン、や(8)つは無礼(60)と暗殺事件
<出来事>ヒュースケン暗殺事件。アメリカ総領事ハリスの通訳を勤めていたオランダ人ヒュースケンが攘夷派の薩摩藩士に暗殺された。