★(1861〜1880)★
1861年
<語呂>東(1)の禅寺にて野郎(86)がイ(1)ギリスを襲う
<出来事>東禅寺事件。水戸藩の浪士がイギリス仮公使館を襲撃した事件。

1861年
<語呂>幕府がイヤ(18)がる和宮にムリ(61)を言った(鬼の勝負師さんの語呂)。嫌(18)がれど、無(6)理に行(1)かせる和宮降嫁(巴さんの語呂)
<出来事>和宮降嫁。老中安藤信正による公武合体政策。孝明天皇の妹和宮と将軍家茂が結婚。

1862年
<語呂>いやむつかしい生麦事件
<出来事>生麦事件。薩摩藩主島津久光の行列が、神奈川の生麦付近で行列の直前を騎馬で横切ったイギリス人を殺傷した事件。幕府はイギリスの賠償要求に応じたが薩摩藩は応じず、翌年の薩英戦争に発展した。

1862年
<語呂>(よい語呂合わせがまだありません)
<出来事>坂下門外の変。和宮降嫁に憤激した尊攘派の志士たちが、公武合体をすすめた老中安藤信正を江戸城の坂下門外で襲い、負傷させた事件。この事件が原因で安藤信正は失脚した。

1863年
<語呂>一夜で無惨、薩英戦争
<出来事>薩英戦争。前年の生麦事件の報復のためイギリス艦隊が鹿児島沖に現れて交戦。薩摩は攘夷の無謀を理解し、講和した。これをきっかけに、逆に薩摩とイギリスは接近した。

1864年
<語呂>人は無視する下関
<出来事>下関事件。長州藩による外国船砲撃事件の報復と関門海峡通行の安全確保のため、英・仏・米・蘭の四国連合艦隊が下関を砲撃、砲台を占領した。この結果、長州藩では開国を主張する勢力が成長する。

1867年
<語呂>人はむなしい、ええじゃないか
<出来事>ええじゃないかの乱舞。東海道・近畿を中心に起こった大衆の乱舞。伊勢神宮のお札が降ったという噂が発端となって、民衆は「ええじゃないか」の繰り返しの入った歌を歌って踊り狂い、富豪の家に押し入っては金品を奪い取った。

1867年
<語呂>人はむなしい大政奉還。このヤロー(186)!な(7)んてことするんだ!大政奉還(1+8+6=15で15代将軍慶喜)(ミキさんの語呂)
<出来事>大政奉還と王政復古の大号令。十五代将軍徳川慶喜(ヨシノブ)が土佐の山内豊信(容堂)らの意見を受け入れ、政権を朝廷に返上。「王政復古の大号令」が出される。

1868年
<語呂>いやーろっぱくん、明治だよ(とやみさんから頂きました語呂合わせです)
<出来事>五箇条の御誓文。明治天皇が神に誓う形式で発布された明治新政府の基本方針。由利公正(キミマサ)、福岡孝弟(タカチカ)らが起草・修正し、木戸孝允(タカヨシ・コウイン)が加筆修正した。「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ。」

1869年
<語呂>人は無口な版籍奉還
<出来事>版籍奉還。諸藩主が土地(版)と人民(籍)の支配権を朝廷に返上。旧藩主を知藩事として旧大名領の支配を継続させた。

1871年
<語呂>藩はない、廃藩置県
<出来事>廃藩置県。旧藩を廃止し全国を明治新政府の直轄地とする政策。薩摩・長州・土佐の藩兵で組織した御親兵(ゴシンペイ)の武力を背景におこなう。旧藩の債務は新政府が引き継いだので大きな抵抗はなかった。

1871年
<語呂>初めて(1)花(87)開いた(1)日清修好条規(太田さん)
<出来事>日清修好条規。相互に領事裁判権を認める最初の対等条約。

1871年
<語呂>新貨条例で嫌(18)な悪貨、もうない(71)
<出来事>新貨条例。最初の統一的貨幣制度確立のための法令。金本位制度の確立、濫発された太政官札や悪貨の整理が目的であった。貨幣の呼称は円・銭・厘で十進法を採用。実際は1897年まで銀本位制が続いた。

1872年
<語呂>いやなにおいの鉄道開通
<出来事>鉄道開通。イギリスの技術・資金を利用して新橋-横浜間に開通。

1872年
<語呂>いや何よりも教育だ
<出来事>学制の公布。フランスを参考にした最初の近代的教育制度。全国を8大学区に分け、その下に中学区、小学区を設置。当時の社会状況に適合せず1879年の教育令により廃止となった。

1873年
<語呂>いやな3%の地租改正
<出来事>地租改正。明治政府が財政基礎の確立のため施行した土地、租税制度の改革。土地の所有者に地券を発行し、地価の3%を現金で納めさせた。

1873年
<語呂>征韓論は、話さん
<出来事>征韓論。朝鮮・満州の土地獲得を説く征韓派と内地優先派(洋行派・伊藤博文・大久保利通ら)が対立。征韓派が敗れ、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らが議員辞職した。この出来事を「明治六年の政変」という。

1873年
<語呂>人は涙の徴兵令
<出来事>徴兵令。国民皆兵を目標に山県有朋の建議で出された。大幅な免除規定があり、実際に兵役が課せられたのは農家の次男・三男であった。

1874年
<語呂>人、話し合いの民撰議院
<出来事>民撰議院設立建白書。征韓論にやぶれて下野した板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らが太政官左院に提出。自由民権運動のきっかけとなる。

1875年
<語呂>いやな交換、樺太千島
<出来事>樺太千島交換条約。1855年の日露和親条約では樺太は両国民雑居の地となっていたが、この条約で樺太はロシア領、千島は日本領と確定。日本側の代表は榎本武揚(タケアキ)。列強諸国と対等の立場で結んだ最初の条約。

1875年
<語呂>いやなことおこった江華島事件
<出来事>江華島事件。日本の軍艦が朝鮮の漢江河口の江華島付近で示威行動をおこない、砲撃を受けた。日本は永宗城を占領。その結果、翌年日朝修好条規を締結。

1876年
<語呂>いやいや(18)ながら朝鮮は、日本と友達になろう(76)と結んだ日朝修好条規。いや(18)がる朝鮮と仲良くなろ(76)うよ、日朝修好条規。いやな(187)日本と、向(6)かいあった日朝修好条規(鬼の勝負師さんから頂いた語呂)
<出来事>日朝修好条規。江華島事件のあと締結。釜山・仁川・元山の開港、日本の領事裁判権の承認、無関税特権の獲得など朝鮮にとって不平等条約であった。

1877年
<語呂>いやな内乱、西南戦争
<出来事>西南戦争。征韓論に敗れて下野していた西郷隆盛を総大将に鹿児島士族を中心とする不平士族の反乱。徴兵令によって組織化された近代的な新政府軍に敗北した。不平士族の反乱としては最大・最後の事件であり、以後反政府活動は言論を中心に行われるようになった。

1879年
<語呂>いやな苦しみ教育令
<出来事>教育令。1872年の学制に代わって制定された。当初はアメリカ流の自由主義的教育を理想とした。

1880年
<語呂>人は(18)歯を(80)くいしばる集会条例(オカピさんより)。一夜(18)にして話(8)す自由を奪う集会条例(0=れい)(鬼の勝負師さんより)。
<出来事>集会条例。集会、結社の自由を規制し、国会期成同盟を中心とした自由民権運動弾圧のために太政官が布告した法律。