★(1881〜1900年)★
1881年
<語呂>人は「はい」とは言いません
<出来事>開拓使官有物払い下げ事件。北海道開拓使の官有物を払い下げるにあたり、開拓長官の黒田清隆が五代友厚の関西貿易社に非常に安い金額で払い下げようとして問題化した事件。払い下げは中止。国会開設運動に拍車がかかった。

1882年
<語呂>人ははにかむ福島事件
<出来事>福島事件。福島県令の三島通庸(ミチツネ)による自由党と農民への弾圧事件。三島通庸は道路工事を強行。自由党員の河野広中らの議会が反発、農民も合流したが、自由党員や農民が大量に逮捕された。

1884年
<語呂>爵位の欲しい人は(18)、はよ(84=早く)制定せよと華族令。一夜(18)にして、伯(8)爵、子(4)爵だ、華族令!。華族令、一般(18)のヤツ(8)には 用(4)はなし。(鬼の勝負師さんから頂いた語呂)
<出来事>華族令制定。華族に公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五段階の爵位が与えられ、特権身分として規定された。

1884年
<語呂>人は走る秩父事件。衝撃が一夜で走る秩父事件
<出来事>秩父事件。松方正義のデフレ政策で各地に騒動が起こっていたが、埼玉県秩父では農民が困民党(コンミントウ)を組織し、自由党左派の指導で蜂起。政府は軍隊を動員して鎮圧した。自由党左派の激化事件の1つである。

1885年
<語呂>人、箱に安住、内閣制度
<出来事>内閣制度発足。太政官制に代わって組織された最高行政機関。内閣総理大臣は天皇が指名した。初代の内閣総理大臣は伊藤博文。

1886年
<語呂>人ははむかうノルマントン号事件
<出来事>イギリス船ノルマントン号が沈没し、イギリス人乗員はほぼ全員生存、日本人乗客は全員が溺死した。乗員が乗客を取り残して脱出したという疑念が浮かんだが、この事件に関して日本に裁判権がなく、イギリス領事館は無罪を言い渡したので日本の世論が反発。この事件以降、不平等条約撤廃の動きが高まった。

1887年
<語呂>人は離れる保安条例
<出来事>保安条例の制定。大同団結運動、三大事件建白運動で高揚した自由民権運動の弾圧を目的に制定。内相山県有朋、警視総監三島通庸が突如公布し即日施行。星亨、尾崎行雄、中江兆民らが皇居外3里に追放された。

1889年
<語呂>いち早くつくった帝国憲法
<出来事>大日本帝国憲法の発布(2月11日)。君主権の強いプロシア憲法を模範として制定された。伊藤博文を中心に井上毅、金子堅太郎、伊東巳代治やロエスレルが加わり最終草案が完成し。秘密のうちに枢密院で審議され、天皇によって欽定憲法として公布された。

1890年
<語呂>一夜も暮れる教育勅語
<出来事>教育勅語。教育の指導原理を示す勅語。儒教的な道徳思想を基礎に、家族国家観に立ち天皇制の強化をはかった。元田永孚(モトダナガザネ)、井上毅(コワシ)らが原案を作成。

1890年
<語呂>一夜が暮れて総選挙・議会
<出来事>第1回帝国議会。第1回の衆議院選挙がおこなわれ、帝国議会が開会。帝国議会は勅選の議員で構成される貴族院と選挙で選出される衆議院で構成。選挙権は満25歳以上の男子で直接国税15円以上納める者(全人口の約1.1%であった)。

1891年
<語呂>人は悔い残す不敬事件
<出来事>内村鑑三不敬事件。無教会派のキリスト教徒内村鑑三が教育勅語への礼拝を拒否。

1891年
<語呂>いわくいっぱい大津事件
<出来事>大津事件。ロシアの皇太子ニコライ=アレクサンドロビッチ(後のニコライ2世)が警備の巡査津田三蔵に斬られ負傷。政府は死刑にしようとしたが大審院院長児島惟謙(イケン)は無期徒刑を宣告。司法権の独立を守った。

1891年
<語呂>いや、悔いのない事件だったよ!(チャチャ丸さんの語呂)
<出来事>足尾鉱毒事件。栃木県の足尾銅山の鉱毒被害を地元選出の衆議院議員田中正造が帝国議会で取り上げ、天皇に直訴(1901年)した。

1894年
<語呂>人は苦しい農民戦争
<出来事>甲午農民戦争(東学党の乱)。日清戦争の契機となった朝鮮の農民反乱。東学とは西学(カトリック)に対する民族信仰で東学党と呼ばれた宗教団体が農民一揆と結合。朝鮮政府は鎮圧できず日清両国が出兵し戦争に発展した。

1894年
<語呂>白紙に戻せ治外法権
<出来事>治外法権の撤廃。陸奥宗光外相によって日英通商航海条約が締結され、不平等条約の内容の1つであった治外法権(領事裁判権)の撤廃に成功した。

1894年
<語呂>人は苦心の日清戦争
<出来事>日清戦争。甲午農民戦争(東学党の乱)をきっかけに朝鮮の支配権をめぐって日本と中国(清)が戦った。日本が勝利し、「眠れる獅子」と呼ばれた清が敗れた。翌年、下関条約で講和。

1895年
<語呂>違約ごめんと下関条約
<出来事>下関条約。日清戦争の講和条約。日本の全権は伊藤博文、陸奥宗光。清国の全権は李鴻章。(1)清国は朝鮮が独立国であることを認める、(2)遼東半島、台湾、澎湖諸島の割譲、(3)賠償金(2億両)など。

1895年
<語呂>人は救護を待つ三国干渉(チャチャ丸さんの語呂)。違約ごめんの三国干渉(いなかもんさんの語呂)。
<出来事>三国干渉。ロシア、フランス、ドイツの三国が下関条約で日本の領有となった遼東半島の清国返還を勧告。日本はやむなく受諾し、代償として3000万両を取得。臥薪嘗肝(ガシンショウタン)の合い言葉で世論が高まった。

1897年
<語呂>いやあ苦難の金本位
<出来事>金本位制の確立。金本位制とは金貨を本位貨幣とする制度。1871年に新貨条例を定めて金本位制を採用していたが不徹底で、1897年に日清戦争の賠償金を準備金にあてることで確立できた。

1898年
<語呂>飛躍は隈板内閣成立(チャチャ丸さんの語呂)
<出来事>隈板内閣成立。第一次大隈重信内閣のことで、板垣退助が内相として入閣したので隈板(ワイハン)内閣と呼ばれる。我が国最初の政党内閣。憲政党が第3次伊藤博文内閣のあとを受けて組織した。

1899年
<語呂>人は(18)救急(99)車をよぶ義和団の乱(オカピさんの語呂)。清のために一役(189)買おうとして苦(9)闘した義和団の乱(鬼の勝負師さんの語呂)。
<出来事>義和団の乱(〜1900)。義和団の反乱が山東省に起こり、「扶清滅洋(フシンメツヨウ)」を唱えて清国政府の支援のもとに北京の列国公使館を包囲。列国は出兵し北京議定書を結ぶ。日本では北清事変と呼んだ。

1900年
<語呂>俺が作った治安警察法
<出来事>治安警察法。第二次山県有朋(ヤマガタアリトモ)内閣がそれまでの集会条例などを集大成して作った法規である。発展してきた労働運動や農民運動の弾圧を目的に制定した。