色々な日本第一号-2

項目 年・内容
地下鉄 昭和2年12月30日、上野〜浅草間(2.2km、現在の営団地下鉄銀座線の一部)に開業。火災予防のための全鋼製の車両、自動開閉扉や自動列車停止装置(ATS)の採用など、当時としては最新の技術を導入していた。当初は物珍しさもあって大混雑の状態だったものの、バスや市電などの他の交通機関にくらべると料金が高かったこともあってか、利用者数は伸び悩んだ
蓄音機 明治42年、日本蓄音機製造会社が国産蓄音機の生産開始
地方博物館 明治12年、開拓使は物産品と動植物の収集および展示を目的に、函館仮博物場を開設。開拓の進歩を広く知らしめ、民衆の知識高揚をはかるために開館した博物館には、 初日から多数の見物人が集まり大盛況であった
チューインガム 大正7年、日本に初めて輸入され、翌年、銀座にリグレー会社が進出して本格的販売を開始
鉄道 明治5年9月12日、明治天皇をむかえた鉄道開通式が行なわれる。新橋を午前10時に出発し、横浜・野毛に11時に到着。華やかな式典だった。新橋〜横浜の片道料金は当初、上等1円12銭5厘、中等75銭、下等37銭5厘だった
鉄道の忘れ物 明治5年、日本で初めて蒸気機関車が品川から横浜間を走ったが、この時に、ホームに下駄を脱いで横浜に乗っていた。これが第一号の忘れ物。「土足ではダメ」と思って、下駄を脱いで乗ったようです
テニスコート 明治11年、山手公園内に5面のコートが作られ、レディス・ローンテニス・アンド・クロッケー・クラブによって行われたのが、わが国での最初の試合
テレビCM 昭和28年、日本初の民放、日本テレビが開局し、最初に流れたのは精工舎(服部セイコー)の時報のCM
テレビ結婚式 昭和33年3月3日、栃木県の24歳同士のカップルが初めてテレビカメラの前で挙式。場所はラジオ東京、テレビBスタジオ。放送後、すぐに伊東温泉にハネムーン旅行
電卓 昭和39年にシャープの「シャープコンベットCS-10A」を販売。これには一万個以上の部品が使われ、高さ25cm、重さは35kg
電話 明治23年12月16日に電話交換開始。その公開実験の時の呼び掛けは「もしもし」ではなく「おいおい」だった
動物園 明治15年3月20日、農商務省の博物館附属動物園、のちの上野動物園が日本最初の動物園。開園当初は面積1万平方メートル弱、日本産動物と家畜を主に約300点の動物を飼育する小さなものだった
日刊新聞 明治3年、日刊新聞「横浜毎日新聞」が創刊。神奈川県知事の井関盛良が横浜の貿易商らに出資を呼び掛けて実現。新聞は1部あたり2銭5厘と、高かったが、珍しさもあって発行部数は伸びていった
ノーベル賞 昭和24年10月、陽子と中性子との間を往復する新粒子の存在を予言した「中間子論」の功績で日本人初のノーベル物理学賞を受賞。寝入りばなのふとしたヒラメキのアイデアが、ノーベル賞を受けられた研究の基本になったという
パ ン 1860年(万延元)年 内海兵吉がフランス軍のコックから焼き方を教わり「富田屋」を開店。最初のパンは、パンだか焼き饅頭か、わけのわからぬものだった
バーゲン 大正12年8月5日、日本最初のデパートの三越デパートが物価引下げをうたって実施したバーゲンセール。牛肉大和煮缶詰が70銭のところを40銭、75銭のコンビーフは45銭、二割から三割引の大売出しだった
パチンコ店 昭和11年、名古屋に住む正村竹一が「ハイスピード野球ボール」という店をオープン
パトロール 1860年(万延元年)、神奈川奉行所は横浜外人居留地(現、横浜市中区山下町)警備のため5人1組でドンドコ、ドンドコと太鼓を打ちながら警備パトロールをした。これを「ドンドコ回り」とか「旭字回り」と呼んだ
万歳 明治22年2月11日の日本大帝国憲法発布に始まる。経済学者・和田垣謙三が「万歳三唱」を提案
ピアノ 明治33年、日本楽器製造株式会社(現 ヤマハ株式会社)の山葉寅楠が、若手の松山大三郎、山葉直吉、河合小市(後の河合楽器の創設者)らとともに製作したアップライト型のピアノ
ビアホール 明治32年7月、東京新橋に開店した日本麦酒会社のエビスビアホール
ビール 明治3年、横浜にアメリカ人ウィリアム・コープランドが設立したジャパン・ブルワリー醸造所で国産第一号のビールを製造
飛行 明治43年12月14日、東京代々木練兵場(現、原宿・代々木公園)で、苦心の末に日本ではじめて飛行機の離陸に成功。初飛行に挑戦したのは日野熊蔵と徳川好敏の2人の大尉。成功したのは日野大尉の操縦するドイツ製のグラーデ式単葉機だったが、しかし高度わずか10m、距離60mの飛行に終った
ボーナス 昭和9年、三菱商会。上級社員が5円、下級社員が1円。最下級の役人の月給が12円という時代だから、そんなに高くない
ホテル 1860年(万延元年) 、オランダ船籍の帆船ナッソウ号の元船長、フフナーゲルが「横浜ホテル」を開業。しかし慶応2年(1866)の大火で焼失
マッチ 明治7年頃、菊林林蔵が戸部監獄の囚人300人を使ってマッチ製造を始めた
マラソン 明治42年、大阪毎日新聞社主催で行われた「マラソン大競争」がマラソンの日本初。コースは神戸の湊川埋立地から大阪の新淀川西成大橋までの32Kmで、参加者は素足やわらじや地下足袋で競った
緑のおばさん 昭和34年11月20日に、804名が初登場。正式名所は学童擁護員
民放ラジオ局 昭和25年9月1日午前6時30分、日本初の民間放送として中部日本放送(CBC)と新日本放送(NJB、後に毎日放送)がラジオ放送を開始
メーデー 大正9年5月2日、日曜日、上野公園両大師前広場でおこなわれた。演壇にたった友愛会の鈴木文治が「今年は日曜を選んだが、来年は何曜でもかまわぬ、仕事をやすんでこの会をひらこう」といったように、翌年からは5月1日に開催されるようになった
野球 明治4年10月、横浜公園予定地のクリケット・グランドで居留外国人チーム対貨客船コロラド号(太平洋郵船)水夫チームの試合が日本で行われた最初の野球の試合
洋裁学校 大正15年4月、杉野芳子の「ドレスメーカー・スクール」。最初は花嫁修業の為に上京してきた若い女性3人の生徒だった
洋式灯台 明治2年、明治政府はフランス人技師ベルニーの設計によりレンガ造りの日本最初の洋式灯台を観音崎に建設
洋書輸入 明治2年、現・丸善の創始者・早矢仕有的が新浜町(現、横浜市中区尾上町)に「球屋」と言う輸入洋書屋を開業。当時困ったのは、店員が洋書の書名を読めなかったことだという
ラムネ 明治17年、神戸の輸入貿易商「シム商会」が製造したのが日本第一号のラムネ。水道が発達していなかった当時、冷たい飲み物はハイカラ好きの神戸っ子たちに大人気だったよう
リフト 昭和22年、志賀高原丸池スキー場と札幌の藻岩スキー場にて、スキー場にリフトが架けられた。しかし、進駐軍として来日した米軍が建設したもので、日本人は立ち入り禁止だった
理容師 明治2年、小倉虎吉が横浜居留地の中国人アコン宅の階下に開業したのが最初。「断髪するのは、死ぬより嫌だ」という人も多く、最初に断髪したのは役人や学者、学生など限られた人々だった。
冷房車 昭和11年、南海電車がはじめて鉄道の冷房化
レンタカー 明治43年、5人乗り40馬力の車を1日30円、半日15円で貸し出す会社が出現
労働組合 明治30年、高野房太郎らが結成した労働組合期成会が母体となってできた鉄工組合
路面電車 明治22年、琵琶湖疎水を利用した電力によって、日本で最初の路面電車が京都〜伏見京橋間で運行開始
外国郵便 明治8年1月1日、横浜郵便局(日本大通5番地)で外国郵便業務開始
街路樹 1867年(慶応3年)、馬車道で柳と松を商店が競って植えたのが街路樹の始め
競馬 1867 年(慶応3年)、日本最初の洋式競馬が根岸競馬場で行われた
自転車 明治12年、梶野甚之助が蓬莱町で製造。全て木製で、あまり余り普及しなかった
写真フィルム 昭和4年10月1日、小西本店(現コニカ)から本格的な国産初の写真フィルムとして「さくらフィルム」が発売された
消防救急 昭和8年、横浜市と名古屋市に救急車が備えられた
西洋歯科 明治14年、横浜市中区山下町に米国人ウイリアム・イーストレーキが歯科診療所を開設
石鹸 明治6年7月、堤磯右衛門がフランス人化学技師ボエルから製法を教わり洗濯石鹸の製造に成功
電信 明治2年12月26日、横浜電信局と東京電信局との間でわが国で初めて電報の取扱いが行われた
洋楽器 明治17年、三味線の職人だった横浜の西川虎吉が日ノ出町に工場を設けて風琴(オルガン)の製造に成功
洋風木造ホテル 明治39年、旧三笠ホテルは日本人職人の手で建てられ開業した。社長は日本郵船などの役員を務める山本直良だったが、経営者が変わり戦後は進駐軍の休養所となり、最後は「三笠ハウス」として昭和45年に64年間のホテルの幕を閉じた

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