世界の七不思議とは-1

紀元前150年ごろ、ギリシアの数学者、ビザンチウムのフィロンが「世界の七不思議」を選んだ。

●世界最古の七不思議 内容
エジプトの大ピラミッド 世界最古の七不思議のうち、現在する唯一の建造物。紀元前2600頃、エジプトのピザに建てられたピラミッド(クフー王、カフラ王、メンカウラ王)。大ピラミッドのクス王のピラミッドは、底辺の長さ233m、それぞれ東西南北に完全に面し、四つの角は直角をなしている。石の大きさは高さ1m、幅2m、一個の重さは平均2.5トン。これを底辺から天辺まで210段に積み上げられ、全体では230万個(あるいは250万個)を要し、総計すると685トンになる。何のための建造物なのかは不明。
バビロンの空中庭園 紀元前600年頃、古代メソポタミア地方、バビロニア帝国の首都バビロンに、ネブカドネザル2世が王妃アミュティスのために(雨の降らないバビロンを王妃の生まれ故郷メディアより美しいものを造ろうと)建造した庭園。縦横角400m、高さ15mの土台を築き、その上に段上の建造物(一番上の面積は60uぐらいしかないが、高さは30階建てビルと同じ高さ105m)を立てる。段が出来上がると、何千トンという肥えた土壌を運び、広いバルコニーにそって深い花壇を作り、花やつる草や果実のなる木を沢山植えた。庭園の一番上に大きなタンクを作り、ユーフラテス川の水ポンプで、絶えず花壇に適当な湿り気を与え、時々、人工の雨を降らせてた。あまりの大きさに、遠くから見ると、あたかも天上から吊り下げられた庭のように見えたという。
エフェソスのアルミテス神殿 紀元前550年頃、古代イオニア(小アジア)の港湾都市エフェソスに建てられた巨大な神殿。高さ20mの白大理石の円柱127本も使用され、完成までに120年要したといわれる。が、ギリシアのヘロストラトスが「後世まで語り伝えられるような悪事をしたい」と言って、放火で消失。
オリンピアのゼウス像 紀元前500年頃、古代ギリシアの彫刻家・フェディアスが製作。高さ12mあり黄金のゼウス像は、宝石や黒檀や象牙をはめ込んだ金製の王座に安置されていたという。
ハリカルナッソスのマウソレウム 紀元前353年、小アジアのカリア地方を治めていたマウソロス王の為に作成された大理石の霊廟。霊廟はハリカルナッソスの市の中央部の大広場に作られた。四角な大理石の土台に置かれ、それぞれの四隅にはギリシャ人とアマゾンの戦いを描いた彫刻帯が飾られていた。2階部分は円柱が36本のイオニア式円柱が立ち並び、円柱と円柱の間に男神と女神の立像が飾られていた。円柱の上に台輪が乗せられ、そこから急傾斜の高い24段のピラミッドが組み立てられ、その頂上には大理石造りの4頭立ての二輪馬車と、マウソロス王とアルテミシア女王の彫像が飾られていた。高さ42m、周囲123m。この外観で、しかも純白の大理石だけを使っていたことから、霊廟というよりも、ギリシャの神殿を思わせるものだった。
ロドース島のヘリオスの巨像 紀元前280年頃、エーゲ海の南東部に浮かぶロードス島の港の守護神として制作された、高さ約33m、胴回り18mの青銅製の太陽神ヘリオス像。ヘリオスの巨像は単に最大なものばかりではなく、人によって形づくられた人間のうち、最も完全な形のものあったと言われている。また、いつのころか、港の入口をまたぐように両足で両方の岬を踏まえ、その下を船が出入りしたという伝説が生まれたが、実際は、両足をそろえていたという説が有力。そんな巨像も、完成後わずか66年で大地震により倒壊、800年以上も横たわったままになっていたが、今では跡形も残っていない(アラブ軍がロードス島を占領した時、立像の破片をスクラップとしてヤダヤの商人に売ってしまったという)。
アレクサンドリアの大灯台 紀元前280年頃、ナイル河口の貿易都市アレクサンドリアの沖にあるファロス島に建てられた巨大な灯台。その高さは最低でも120m以上もあったとされ、灯台の光は50km以上の先からでも確認できたという。形状は大部分は大理石で造られ、摩天楼のような格好で、頂部がだけが丸くなっていたという。また伝説には、晴れた日にはマルマラ海の向こう側にあるコンスタンティノープル(今のイスタンプール)の町の様子が反射鏡に映り、また日光を反射させると、160キロ先の船を焼くことが出来たという。近年、地中海海底から灯台の痕跡とみられる遺物が発見された。

それにしても、いったいなぜ世界の七不思議が生まれたのだろうか。
まずは七不思議の不思議に迫ってみよう。
フィロンの世界の七不思議は、不思議というよりは、建造物の一大驚異という気がしないでもない。
いったい、どうやって造ったのだろうという、創造を絶する神秘が不思議の対象になっている。
文明の発達や機械の進歩により、巨大なダムや高層ビルがいとも簡単に作られるようになった結果、古代人には驚異に見られたのも、現代人にはそれほどまで、感じられないのかもしれない。


なぜ、「七不思議」なのだろうか?
「六不思議」でも「八不思議」でも良さそうなのに。
@旧約聖書「創世記」第一章には、神が天と地と万象とを6日間で創造し、7日目に休んだ。神はその第7日を祝福したから、聖書では「7」という数字は「完全」を意味する。
Aギリシアの数学者ピタゴラスは、「7」という数字を「3」と「4」に分け、「3」を神を表わし、「4」は四方世界(東西南北)を表わすとした。「3」と「4」を合わせた「7」は、神と世界を同時に示すものであって、宇宙全体は「7」という数字の中に完全に収まっている。

それで、世界の不思議を「7つ」決めるようになったのじゃないかと思われるが、実際の所は、わかっていない。


フェロン以降、さまざまな人が世界の不思議を選んできた。
科学の進歩とともに、選定の基準も変化していった。
名のあるところでは、イギリスの探検家レオナード・コットレルの「古代の七不思議」。

●古代の七不思議 内容
クレタ島のミノス宮殿 エジプトとギリシアの中間、地中海とエーゲ海の出会う所のクレタ島。3000〜4000年前に造られたと言われる、縦170m、横180mの大宮殿。ミノス王の妃パーシファエの色欲を満たすため牡牛と交わった結果、生まれてきた頭は牛、体は人間というミノタウロスが住んでいたという。また、迷宮と呼ばれるようにいくつもの部屋や倉庫が上下左右に配置されている。
テーベのネクロポリス エジプト中部のナイル湖畔にある遺跡の街ルクソールには、テーベ・ネクロポリス(墓地)の岩壁をくり抜いた3000年前の墓、古代エジプト人が「永遠の家」と呼んだ貴人たちの墓である。ラフミラの墓、センネフェルの墓、メンテの 墓がある。王族の岩窟墓や、王の再生と復活を祈る葬祭殿がずらりと並び、死の世界にまつわる遺跡が多いため、この地区はネクロポリス(死者の街)といわれる。
王家の谷(ファラオの呪い) エジプトのカイロからナイル川をさかのぼった谷間にある王様たちの墓。淋しい岩山の谷間に、盗掘を逃れるために作られたファラオたちの墓がある。全部で62発見されている。1922年にイギリスの考古学者、ハワード・カーターが発見した「ツタンカーメンの墓」、王のミイラをはじめ、黄金のマスクなど3500点が埋葬されたときのまま残っていた。一緒に探したイギリスのカーナーヴォン卿が病死したので「ファラオの呪い」の逸話が伝わる。他に、棺の置かれた部屋の天井にある天体図が有名なセティ1世の墓、通路の壁面にある「洞窟の書」が見どころのラムセス9世の墓、サプタハの墓等の墓がある。
シリアのパルミュラの都 1〜3世紀のローマ時代に、シリア砂漠の中心部でオアシス都市として繁栄したパルミュラ。周囲には防護のため11キロにおよぶ城壁がめぐらされ、城門から城門へずらりと石造りの円柱を建て、屋根のついた広いアーケードを造った。立派な神殿も宮殿も作られたが、多くの円柱を用い、どの円柱にもすぐれた彫刻がほどこされていた。現在は廃墟と化しているが、街の主要道路の両側に立ち並んでいた杉の大木ほどのある円柱1500本以上のいくつかが残り、また、ゼノビアの建てたベル大神殿の370本の円柱のいくかが残り、その豪華さのいくつかが残り、当時の面影が残っている。
エルサレムの岩のドーム 7世紀にカリフのアブド・アルマリクがキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の聖地でもあるエルサレムに建てたイスラム会堂。黄金に輝く岩の屋根のドームの外壁は青色の石、壁の低い部分には灰色の大理石、上部は込み入ったアラベスクを刻んだ緑と青のタイルで覆われている。イスラム会堂の中には、アブラハムが息子イサクをいけにえとして捧げようとしたとうとした巨大な岩があり、それはイスラム教の開祖マホメットが昇天したといわれる巨大岩でもある。
クラク・デ・シュバリエ レバノンにある、十字軍の城塞跡。12世紀の城の中では最大と言われ、厚さが24mもある大きな斜めの城壁で、難攻不落を謳われた城。
デルフォイのアポロン神殿 紀元前480年頃、中部ギリシアの古代都市デルフォイのパルナッソス山に造られた大理石の神殿。巫女が神がかりとなってアポロンの神託を授かっていた。神託をトリックだったという説もある。
いずれにしても、それぞれの時代の技術でつくられたとは思えない「驚異」のスケールを誇る城や墓などである。
他にもフィロンの「世界の七不思議」に次いで、誰が選んだのか判明はしないが、「第二・世界の七不思議」がある。


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