2. 耐える

息子が産まれて10日間、入院中、産婦人科の皆様には大変お世話になりました。
子供を育てていく事、それまでの私の人生には、全く無縁の事でした。
病院では、前半は、産まれた息子の事より、帝王切開をした自分への労り、傷口へのケアの事で、夢中でした。
手術室から病室に運ばれ、まず思ったのは、トイレに行きたい!事でした。

そういえば夜中、トイレに模様して、でも力んでも出ないな?から、始まったのです。
お腹を切って産み終わり、担架で主人たちに2階の病室に運んで貰い、息も絶え絶えの主人にはとても言えません。

担当の看護婦さんに、オムツをはかせて貰いながら、初めましてのご挨拶と同時に交わした会話が……
「あの~トイレに行きたいんですが、無理 そうですよね、で、大きい方が何となく夜中からしたくて、今もなんですけど、お腹に力が入らないんですよね。何とかスッキリ出来ませんかしら?」
看護婦さんの一言は、
そうね~そんな時あるわね~
「でも、ま~仕方がないし、色々経験あるけど、そうゆう時は、忘れてしまう事だわね~少しの間ね。」
?ビックリでした?まさかの回答に驚きでした。

便秘で、トイレで苦しいのは、20代の不規則な生活をしていたあの頃以来でした。
特に息子がお腹に出来てからの約10ヶ月間はお通じは快調も、快調 ♪1日に何度もで、ある時は息子までトイレに流したのでは?と、ありえませんが、錯覚するほど、お腹がスッキリ、毎回が調子のよい日の連続でした。
それだけにショックなその回答に、がく然、三日間の苦しみが始まったのでした。
しかし、苦しみはそれだけではなく、腕に、点滴を二日~三日、四時間事に何本か打ち、その間は、のたうち回る程の子宮の収縮、痛み?がありました。

1日目の夜中から、それは始まったのです。
今思えば、痛み止めを打って貰えば良かったのに、「なんかね~うーん、表情見てると大丈夫そうだね~、打 たなくてもね、頑張ってみる?♪
と、夜中仕事が終わり帰っていく看護婦さんに、何度か確認され、言われて行くうちに、そんな気持ちにもなり、では頑張っ てみるか、と、思ったのもつかの間、
う、痛い、イタタタ、何だこれは、?
じっとはしていられない程のお腹の痛み、右へ左へベッドの策を掴んで体勢を変 えて身体ををひねって動かさずにはいられません。

朝方産んだ時は、背中に部分麻酔を打つので、麻酔が効いていて、痛みは殆んど感じられなかったのです。
夕方、主人や、駆け付けてくれた両親、妹が帰り、夜になって来ると、段々その痛みは感じられてきました。お腹を切ったので腹筋が殆んど使えなくて、起き上がれない?
でも、ギリギリ動ける範囲で、その強い痛みから逃れるため、のたうち回る!の表現が合うようにゆっくりですが、左右へ身体をひねります。

オムツもはかされ、トイレは管を差しいつの間にかしている状態。
もう、女性として、かなりの最悪状態?
痛みに耐えて、耐えて、恥ずかしい、痛い、今日は何日目?
と、三日目の午後、やっとオムツをとって、歩いてもいいですよ♪と言われ、一番にやったことが、トイレに行って、力んだこと??
やっぱりあれは、気のせい、気の迷いではありませんでした?
しっかりしたものが、我慢した、忘れよう忘れようと努力したものが現れて、流されました。
妊娠、出産、とは、耐えることかもしれません。(妻)
(2016.09.06)

分離不安

二人目の子(娘)が小学校に入り、入学式も無事終わり、4月の2週目やれやれやっと落ち着けるかな、と思っていると・・・、
今日はずっと泣いてしまった。」と、娘が学校から帰り、こぼしている。
「えっ、?どうして?」私はビックリしました。
思えば、その日の朝、同じクラスのお母さんに通学路で会い、それまで毎日娘を門まで送っていたのに、何となく一緒に行ってやらなかった。
「大丈夫かな。なんとかなるかな。」の甘さが、逆に娘のイッパイイッパイの気持ちを爆発させてしまい、一人では行けない子供にさせてしまったのだ。

その日から、あの涙の止まらぬ日が始まり、それは優に半年も続いてしまったのです。

幼稚園時代は、物事を漠然ととらえる感じで、毎日遊ぶ子が違い、楽しそうにしている感じでした。
家の周りは、お友だちが少なくて、公園に行っても同じ子と遊ぶことはなく、1、2歳の頃から、たまたま会った子と少し遊ぶ程度、継続させることはなかった。
でも幼稚園をプレの1年も含めると、4年ほど通っていたし、お友達とも同じクラスの時代の3、4人の子達と仲良く出来ていた。
毎日とはいかないが、1、2週間に1回、月に1度位の元プレのクラスでの遊びなどを企画して楽しんでいたから、お友達、団体、皆で楽しむことには問題のない子だと、思っていた。

泣きたくなること、泣き始めると涙が止まらないこと。
時には先生に「静かに泣いてね。」とまで言われていた。
解決することは沢山あるようにも感じました。

まず、何が彼女にとって問題なのか、一つ一つ見てみようと思いました。
とにかく、学校に登校すると、教室に入るのが苦手になり、私が廊下で見ているだけでは足りなくて、席を後ろに換えてもらい、その横に座って、時には背中をさすりながら、授業に向かったりしていました。
先生に何か提出物を出すにも前に行くのに、一緒に行かないと出来ない!
提出する物を出すことすら、私が手を添えてあげなければできませんでした。
給食も食べる時間が短く急がなくてはいけないのですが、食べきれないことを苦にして泣いていました。
その度合いはどんどん悪くなるようでした。

トイレに行きたくなっても、授業中どうしても我慢できず、でも先生に言い出せない。
休み時間に行ったとしても、時間内に出れない。何回もトイレットペーパーで拭いて神経質に、なかなか納得しなくて出てこない、ある意味時間にもルーズになっていました。

本当の娘は、割りと生真面目で、言われたことは守るところがあり、時間にもルーズではありませんでした。
明るく、思った事は、人に言える性格です。それでいて、少し控え目、人の気持ちを察する、悪口は言いたくないような、思いやりのある子でした。
習い事先の先生が、娘を一言で言うならば、「あまり我こそはと前へ出るタイプではないけど、皆が自然に近づいて来るような磁石に吸い寄せられてピタッと、集合してくるような、性格である。」と言われていました。
まず、市内にある、子供支援センターに相談して、紹介を受け、中にある専門の先生に毎週予約を取り、娘の状態や、私の感じる話を聞いて頂きました。
そして、言われたのが、娘さんは、「分離不安」だと、診断されたのです。
お医者様ではないですが、子供の異常な症状の専門の先生のようでした。
分離不安は、「親と子がそれまで、過保護と言えるほど密着していたのに、急に離れたため、、戸惑いを感じ、親から離れて、なにもうまく出来なくなり、心のバランスを崩してしまうこと。」のようです。

翌日、学校に「分離不安」だと言われた、と話しましたら・・・、
小学校の校長を始め、副校長、担任、保健の先生方は、皆さん、ほとんど、ご存じない症状のようでした。
まだ浸透してないんだな~という、印象がありました。
(妻)

1. 出産

ホキャー、ホキャー」、おめでとうございます♪
男の子ですよ♪
フー、ありがとうございます♪
この瞬間、我が家の第一子、長男が誕生しました。
そして私は親になりました。
今から丁度21年前の事です。
三十路を過ぎ結婚六年目の秋でした。
二十歳の頃、私は学生でした。
勉強もしながら、人並みに恋愛もしました。資格を取り、就職もしました。
社会に出て仕事への厳しさ面白さ、仲間との時間など、少しずつ大人の階段を登りかけていた頃、縁あって結婚をしました。
その数年後、子供を授かり出産しました。
妊娠、出産、子育て、女性にとって、人生の中で一番輝いていてやりがいのある大きな仕事、その真っ只中を、世間知らずの私は、この21年、母として、子供とともに過ごしてきました。
男の子~、あんたが男の子を産むとはね~、女の子を産むんじゃないか、と思ってたわ
産まれてきた子がどっちでも、関係ないわ。元気で産まれてきたんだから、有り難いのよ!
それは、その通りね、可愛がってあげなくちゃね。我が家にとっても初孫ちゃんなんだもんね。
そんな会話を母と産婦人科の病室で、入院三日目、毎日来てくれたお昼のあと、話した事を今でも覚えています。
予 定日より1ヶ月も早く出産。深夜トイレに行き、力んでもなかなか、スッキリせず、部屋に戻ると、何か様子がおかしくて、段々下の方からお水が出てきている 気がして、主人を起こし、相談しているうちに破水している事が分かり、慌てて朝方、主人の運転する車に乗せて貰い、産婦人科へ、向かったのが、つい昨日の ようです。
羊水が身体から出ていくなんて、大丈夫?赤ちゃん死んじゃうんじゃないの?
焦って考えているうちに、車の中で気持ち悪くなって、ハーハー行き苦しくなって来たのも懐かしいです。
産 婦人科に到着すると、連絡を入れておいたので、先生が早朝にも関わらず、待っていてくれました。
「どうしたの?」
「破水してしまって、掃除を夕方したから でしょうか?それより赤ちゃん大丈夫でしょうか?」
「大丈夫、大丈夫、羊水はどんどん作られるからね。もう、だから無理しないように、って言ったでしょ」
「はい、緊急帝王切開ね?」
そうして、息子がお腹で逆子だった為に治らず、帝王切開は決まっていたのですが、予定より大分早く、手術をする事になりました。
それで泣き方も、
ホキャーホキャー」と、意外?と、息子の産声も
おギャー」ではなかったのです。(妻)
(2016.09.05)