初期のデジカメ写真

今でこそ、デジカメやスマホのカメラは十分な画質を持っているが、発売当初はまだまだだった。
でもやっぱり、デジカメで撮ってみたくて、1997年頃から、出張で時々デジカメ(最初が、DSC-F1)を携帯して出かけた。
以下が、当時の撮影例。

1998年7月9日 大井川鉄道

金谷(かなや)駅

地名(じな)駅

千頭(せんず)駅

そういえば、当時、こんな感じでホームページを公開していたら、とある出版社から電話が入り、
「子ども向け乗り物の本を作っていて、写真を使わせてもらいたいのですが・・・。」
と。(あれ?今思えば、どうして電話番号が分かったのだろう??)(~_~;)
「使えたらどうぞご自由に。ただ残念ながら、オリジナルもこの大きさ(640×480)なのです。」
出版社の方は、(ホームページにあるものではなく、)もっと鮮明な画像が欲しかった訳だが・・・。(^^;)
(2016.09.25)

1. 出産

ホキャー、ホキャー」、おめでとうございます♪
男の子ですよ♪
フー、ありがとうございます♪
この瞬間、我が家の第一子、長男が誕生しました。
そして私は親になりました。
今から丁度21年前の事です。
三十路を過ぎ結婚六年目の秋でした。
二十歳の頃、私は学生でした。
勉強もしながら、人並みに恋愛もしました。資格を取り、就職もしました。
社会に出て仕事への厳しさ面白さ、仲間との時間など、少しずつ大人の階段を登りかけていた頃、縁あって結婚をしました。
その数年後、子供を授かり出産しました。
妊娠、出産、子育て、女性にとって、人生の中で一番輝いていてやりがいのある大きな仕事、その真っ只中を、世間知らずの私は、この21年、母として、子供とともに過ごしてきました。
男の子~、あんたが男の子を産むとはね~、女の子を産むんじゃないか、と思ってたわ
産まれてきた子がどっちでも、関係ないわ。元気で産まれてきたんだから、有り難いのよ!
それは、その通りね、可愛がってあげなくちゃね。我が家にとっても初孫ちゃんなんだもんね。
そんな会話を母と産婦人科の病室で、入院三日目、毎日来てくれたお昼のあと、話した事を今でも覚えています。
予 定日より1ヶ月も早く出産。深夜トイレに行き、力んでもなかなか、スッキリせず、部屋に戻ると、何か様子がおかしくて、段々下の方からお水が出てきている 気がして、主人を起こし、相談しているうちに破水している事が分かり、慌てて朝方、主人の運転する車に乗せて貰い、産婦人科へ、向かったのが、つい昨日の ようです。
羊水が身体から出ていくなんて、大丈夫?赤ちゃん死んじゃうんじゃないの?
焦って考えているうちに、車の中で気持ち悪くなって、ハーハー行き苦しくなって来たのも懐かしいです。
産 婦人科に到着すると、連絡を入れておいたので、先生が早朝にも関わらず、待っていてくれました。
「どうしたの?」
「破水してしまって、掃除を夕方したから でしょうか?それより赤ちゃん大丈夫でしょうか?」
「大丈夫、大丈夫、羊水はどんどん作られるからね。もう、だから無理しないように、って言ったでしょ」
「はい、緊急帝王切開ね?」
そうして、息子がお腹で逆子だった為に治らず、帝王切開は決まっていたのですが、予定より大分早く、手術をする事になりました。
それで泣き方も、
ホキャーホキャー」と、意外?と、息子の産声も
おギャー」ではなかったのです。(妻)
(2016.09.05)

長崎

飛行機での初めての出張が、1985年の長崎であった。実際に何をしに行ったのか、ほとんど覚えていないのだが、写真が残っているので、勝手にこうだったんだろうとか思い込んでいたりする。
人間の記憶なんてその程度なのか、あるいは、私だけ記憶力がなさすぎるのか。

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初めて、飛行機から見下ろした富士山。長崎駅もまだ現在の姿ではない。

スナップ写真(高画質)はこちらヘ

長崎と言えば,高校の修学旅行で訪れた場所であり,それも思い出の『写真』として残っている。

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長崎に原爆が投下されたのは、1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分。
私が生まれる、たった14年前。長崎では7万4千人の人達が犠牲になったとのこと。
長崎原爆の犠牲者、他、この戦争で亡くならられた全ての人たちのご冥福をお祈りします。
(2016.8.9)